2023年12月16日

三陸の震災遺構・伝承館 石巻から南三陸

宮城へ。ほんとは今年の頭に予約していたのにコロナになっていけなくなってしまった、震災遺構と温泉のと同じコースで予約。
浜松から深夜バスで8時間。7時20分に仙台駅に到着。浜松からは遠州豊田と国見の2回だけ休憩で間はゆっくり寝られる。仙台駅前の商店街ではありがたいことに早朝やってる蕎麦屋やなんなら海鮮料理屋まで開いてた。
仙台ということでずんだシェイクを、と思ったがこちらはやはり開いてない。が、冷凍の自販機で売ってたので購入。ちょいっと高い。で、石巻へ向かう。

石巻に到着。さすが石ノ森章太郎さんの街で、駅からずーっとキャラクターの人形が立っている。
駅前で予約してたレンタカーを借りて、いよいよスタート。

石巻の海沿いの門脇地区の震災遺構 門脇小学校へ。外観を実際見てみると地震の影響という感じではないけど、それは中を見るとわかる。

伝承館としては、体育館に津波で流された自動車に、仮設住宅。遺構となった校舎にも入れる。今は公園になってなにもないが震災前は海までぎっしり家が並んでおり、住宅より高い津波が来たので、流された車がこの小学校にぶつかり校舎は炎上し焼けたあととなっている。そういう形の被害もあったのだといきなり驚く。
校舎での展示は小学校がどういう感じの学校だったのか、残ったものがどうなったかという展示からはじまるが、後半はとてもよかった。地震発生後、どういうことがあって、どういう経路で避難して、どうなったか、どうなっていればよかったかなど詳細が展示されていた。もともと門脇小学校は海沿いということもあってか、避難訓練が徹底していて、子どもたちはだまって避難し、避難も学校だけでなく、学校からうらの高台まで行き、親に引き渡すところまで訓練されていて、まさに街を上げての訓練をされていたとのこと。そこまで徹底されていても想定外はあるもので、1階が浸水したために、校舎から出て高台に行くということができなくなったが、教壇を橋にして2階からうらの崖まで行ける人だけ行った、その教壇が途中で落ちてしまったが、その落ちたものをスロープにして1階に残っていた人が高台に逃げられたとか、もちろん逆に残念なことになってしまったことも紹介されていた。あれから10年立って少し気持ちに余裕ができてきて多くの人が語ってくれたり、当時児童だった子供が大人になり振り返ってみるとというインタビューもあり、リアルな話を聞けた。
高台で生徒を親に引き渡すまで訓練されていたが、引き渡したがためにその後で被害に遭ってしまった子もおられたようで、その後まで訓練しないといけなかったと悔やまれていた先生の話もなんとも言えない気持ちになる。
話だけでなく、その現場が残されているので、ここに橋かけたのかとかも見られて、普通ならそうしないけど、咄嗟にそうしようとなるのだろうなと思い、どこまで訓練しておけばよかったのかというより、とにかく選択肢を普段から考えて用意しておくのが重要なのかもしれないと感じた。
で、一番印象に残っているのは、助かった児童が他の小学校に行くことになったが、その先の学校の避難訓練がゆるくて一体何の訓練なのだろうかと思った、という一言。

海沿いの公園の方へ。到着した時はちょっと広いけど海沿いにある広い公園に見えたが、もともとここは住宅地があって、全部流されてしまい、今は住宅としては使えないようになっているところだとわかるのでなんとも言えない。広場の道にももともとこういうところだったという写真も飾ってあったりもある。
ここに石巻の震災伝承館がある。こちらでは石巻での被害はもちろん、住人、消防、復興などいろんな立場の方のインタビューのアーカイブを見聞きでき、またボランティアの方からリアルな話を直接聞くこともでき、そういう伝承だけでなく、俺の住んでるところのだどうで、そうならどういうことできそうにみたいな話もいろいろしてくださり、話していて悲観的なことはなくて、いかに受けられた経験を一人一人に合わせて生かしてもらおうという気持ちを受けた。
ちなみにこの伝承館の高さは津波の高さだそう。
この土地は条例でもう住めないのだそうだが、少しずつ活用しようと農園やお店があった。どう生かしていくかこれからの課題なのだろう。

伝承館のインタビューの中にあった復興に携わった方で、観光客が戻ってきた時だけでなく地元の人のためにもといって作られた「いしのまき元気いちば」へ。石巻の鮮魚、農産品はもちろん、三陸地方の特産品もならんでいる。2階はかなりひろいフードコートになっている。テラス席で海鮮丼をいただく。一見具は少なめかと思ったら、中にも具がたくさん入っており、大満足な海鮮丼やった。

石巻の隣の女川へ。震災の際には原発のはなしばかりであったが、こちらの街も被害はもちろん大きかった。今は倒れた交番が震災遺構として残っていて、港から駅まで新しい商業施設が並んでいる。きっとここも住宅があっていまは住めなくなったのだろうなと思うと複雑だが、こうやって観光客が帰ってきているのはいいことなんだろうなと思いたい。駅ビルには温泉があり、時間がなくて入れないけど、足湯だけ入り進む。なにげにpH高めのすきなやつやった。

女川からさらに北上し大川小学校の震災遺構による。こちらは河口から4キロ離れていたにもかかわらず、北上川を遡ってきた津波の影響で7割の児童が死亡・行方不明となったところ。1分単位でどういおう避難を行ったのかなどを解説されており、結果から見るとなんでそんなことしたのかと思えるがそうはできなかったのがよくわかる。そもそも小学校が避難場所になっていたこと、堤防と山に囲まれていたがために北上川の水位が上がっていることに気がつけず、避難のために校庭に残っていたり、高い堤防側に移動してしまったのが裏目に出てしまった。40分もあったのに目の前の裏山に避難するという選択肢を取れなかった、訓練時にこの選択肢の優先度を上げられなかった、裏山に登る階段を作れなかった、という危機意識が低かったがために起こったある意味人災と言える悲劇とも言えてしまうが、ハザードマップだけでなくそれにあわせてどう避難するかまでは考えられていた点で、今の自分たちよりは危機意識は高かったように思う。

南三陸へ。今回の旅行は去年ここの伝承館と商店街が隈研吾さん設計で作られたというのを聞いたところからだったので、メインの目的地。昨日までは復興地に建てられたと思っていたが、ここまで3箇所震災遺構を見てきただけで、住宅として使えなくなったのが残念と思うようになったが、まだそれだけじゃなかった。時間が遅くなったので商店はあきらめて伝承館に行く。展示は少ないけども映像と考えるというところは重点的につくられていて、ここがどう状況になったか、それをどう活かすかというのはここまで同様だったが、どう復興してきたかという話が印象的だった。たしかに復興したが、住民は丘の方に移動し、その住宅地を建てるための土砂で、海側の土地を3階建て分ほど上げて谷を埋めていたり、川の流れを変えていたり、牡蠣も養殖も量より質にと変わっていたり、いろんなことが急ピッチで変えたがためにそれがよかったのかどうか、しばらくしないとわからないところ。

今日の宿は南三陸の港近くのホテル観洋さん。志津川湾の高台にあり、海を見渡せる温泉の露天風呂がいい。